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[地域おこし協力隊の体験談] 東京→島根にIターン ・ 西嶋一泰の場合

しまね地域おこし協力隊noteを訪れていただいて、ありがとうございます!
一般社団法人しまね協力隊ネットワーク 副代表理事の西嶋一泰(にしじまかずひろ)です。

私は2016年に東京から移住して島根県大田市の地域おこし協力隊に着任しました。協力隊の任期後は引き続き大田市に住みながら、地域おこし協力隊のサポートや、島根県立大学で学生たちとともに地域づくりに取り組んでいます。

この記事では、私が体験してきたことや、島根で活躍する移住者の方などをご紹介します。


地方移住失敗!? 研究者からのキャリア転換

地方移住をする前、私は東京を拠点に活動する研究者の卵でした。専門は民俗学で、全国各地の祭りを調査研究する日々。大学院の博士課程に籍を置きながら研究員や大学の非常勤講師も経験しましたが、研究職のポストは狭き門。気づけば、妻の収入頼みのアルバイト生活。そんな妻も体調を崩して会社を退職し、いよいよ自分のキャリアについて決断をしなければならない時がきました。

そこで候補にあがったのが地方移住。祭りの調査をするなかでローカルな文化に魅せられてきた私は、自分の調査研究の経験も生かして地域づくりのお手伝いができないかと考えていたところ、既に東京から地方へ移住し活動していた研究者仲間から、某県で新しいプロジェクトに参加しないか?と誘われました。

一念発起して参加した某県でのプロジェクトは、地域おこし協力隊に近いもので、行政と民間企業が連携し、各地の地域づくりの現場をサポートするミッション。しかし実態は、行政側と民間企業側、双方の認識が異なり、民間企業の現場の担当者として着任していた私は、いきなり八方塞がりで身動きがとれなくなりました。行政担当者と会社との板挟みとなって非常に辛い時期を過ごしました

半年経ったところで、年度内でのプロジェクトの終了が決定。ただただ、辛い交渉と謝罪をしながら耐えた日々は今でも思い出すとゾッとします。私の最初の地方移住は何もできないまま、ミスマッチによる失敗で幕を閉じました。

地方移住の再チャレンジを島根で

地方で活動するにも、自分に能力がないのではないか。すっかり自信を失って東京へ戻りますが、もう一度だけ頑張ってみようと思ったところに舞い込んできたのが島根県大田市の地域おこし協力隊でした。

当初、大田市という土地はほぼ知りませんでした。土地より条件やミッションで選んだ形です。当時、島根県では、離島の隠岐島前高校から始まった高校魅力化(生徒の全国募集と教育プログラムの充実)を県をあげて取り組み始めており、大田市でも新たに始まるタイミングで教育系の地域おこし協力隊員を一気に4人採用する計画でした。同期が4人いるという心強さと、サポート体制もあります。各隊員は、高校や教育委員会に配置されるのですが、私は山村留学センター配置に魅力を感じ、応募を決めました。

前回のミスマッチを踏まえ、今度は会社という立場を背負わず、一隊員として、地域にどっぷり浸かりながら、成功しても失敗してもいいから、自分で考え動ける環境を求めていました。配属される大田市山村留学センターは、国立公園である三瓶山という山の麓にあり、自然や文化を体験プログラムとして小中学生向けのサマーキャンプや1年単位の長期留学を行う市の施設です。地域の文化をコンテンツにして発信するというのは、今まで自分がやってきた研究者としての活動も役に立つのではないかと期待を寄せ、住まいも三瓶山の麓の空き家をみつけ、妻と生まれたばかりの娘と3人で移住しました。

妻と娘と島根へ移住

隊員時代のこと (2016年7月〜2019年6月)

隊員としてのミッションは大田市山村留学センターの情報発信や地域連携プログラムの開発でしたが、実際の状況をふまえて、自分なりに動いてミッションを再定義しました。

一通り挨拶回りや情報収集をして気づいたのは、地域連携より、情報発信に集中したほうがよいということ。山村留学事業は1993年から始まっていて、既に十分に地域と連携しており、体験プログラムも年間70回と十分すぎるほどにあります。それに比べ、県外などから人を呼び込む事業ながら、情報発信がほぼされておらず、口コミに頼る現状。そこで、情報発信に焦点を絞り、Webサイトやパンフレットの制作、SNSの開設とタイムリーな写真・映像の投稿などを集中的に行う方針を立て、上長にも了解を得ながら自信の活動の範囲を明確にしていきました。

東京や大阪のフェアにブース出展

体験活動にあわせた土日出勤や残業はあるものの、基本的には定時退社の月17日勤務。市町村と雇用関係のある嘱託職員(現在で言うパートタイム会計年度任用職員)として働きました。ただ、山村留学事業に100%従事するのではなく、他の隊員と連携し推進する大田市の教育魅力化の会議や、市役所の別プロジェクトの会議、連携施設や地域の会議や、地域の取材などで外に出る機会が多くありました。複数の現場を持っていると、仕事のやり方を自分でコントロールができるのです。

山村留学センターの広報は任期中に無事に軌道に乗って、Facebookでは競合事業で1位の購読者数を獲得。夏の山村留学は募集情報公開2週間で定員に達し、東京や海外など遠方から参加が増えるなどの結果に結びつきました。

※大田市山村留学センター紹介映像(西嶋制作)


任期終了に向け、仕事の経験を積む

協力隊の仕事を定時で終え、何をしていたかといえば、地域や島根県各地とのお付き合いと、任期後にむけた準備です。特に子どもが産まれ、大学院までにたくさん借りてきた奨学金の返済もあり、家計問題は真剣に向き合う必要がありました。

協力隊の給与は年間約200万円(当時の上限)。私の場合、家賃は活動費から出ていましたが、家族3人で生活するには厳しいです。大田市では、当時地域おこし協力隊は嘱託職員、現在のパートタイム会計年度任用職員という待遇で雇用されていました。届出を出して認められれば副業ができる状況でしたので、なんとか任期終了後にもつながる手に職をつけたいと、ライターと映像制作者の道を開拓していきます(なお、地域おこし協力隊が副業を行なっていいかどうかは、自治体により異なるので確認が必要です)。

ライターは、研究者時代からブログや冊子を作っており、アルバイトで文章を書く仕事もしていたので多少経験がありました。また情報発信の業務でSNSや広報物の記事を書き練習。そして、運良く、以前から知っていた東京の会社が運営するウェブマガジンで、中国地方の記事を月1,2本書かせてもらえることとなりました。他にもライター講座など開き、ライター業をしていることをアピールしていたら、デザインチームからお声がかかり、行政の冊子作成の文章担当として加えてもらうなど嬉しい展開をみせます。しかし、ライターは取材が面白い一方で、1回あたりの単価が低く、仕事も単発で終わることが多く、なかなか安定した仕事にはなっていきませんでした。

地域イベントのライブ配信を担当

当初、ライターで稼ごうと思っていた目論見ははずれ、代わりに比重を増やしていったのが映像制作です。映像制作は各種PR映像の作成などニーズがあり、さらに単価もグッと高くなります。その分、専門的技術が必要とされるのですが、幸い前述の協力隊の情報発信の仕事でいくらでも練習が積めました。山村留学の活動を日々、撮影・編集・発信していたので鍛えられていきました。独学で映像を学び、1眼レフである程度、綺麗な映像を自然な編集で制作できるようになってくると、ポツポツと依頼が来始めます。最初は地域の方に読んでもらい、ケーブルテレビ用の映像をつくり、行政から依頼されたPR映像や観光系の映像を制作していきました。決してうまい映像ではないのですが、わかりやすい撮影編集を心がけ、収入の1つの軸となっていったのです。

※大田市観光協会コンセプトムービー(西嶋制作)


任期後 複業フリーランス、重心を変えながら

任期後も幸いなことに協力隊時代と同じ業務で大田市のパートタイム会計年度任用職員を続けられることとなりました。

まだライターや映像制作者として一本立ちするには不安があったので、社会保険に加入しながら、フリーランス活動もできる身分は大変助かりました。ただこのタイミングで生活を見直し、三瓶の近くから、市の中心部に格安の中古物件を購入し、住み始めます。冬は雪で閉ざされる山の暮らしに妻が限界を感じたことと、家賃補助がなくなるタイミングで持ち家にし収入の底上げを図りました。空き家でも中心部で改修の必要がなければ、必要に応じて同じ価格で販売しても買い手がつきます。そこを見越しての投資でした。

映像の制作、記事の執筆、研究者スキルを生かしたリサーチ、後輩協力隊のサポート、イベントの企画運営など、安定はしませんが様々な仕事が散発的に舞い込む状況となり、会計年度任用職員の報酬を、フリーランスとしての利益が上回るところまで来ました。

研究者スキルを生かし、祭りのサポート団体でも活動

当初はライターメインで活動しようと思ったものの収入があがらず、映像制作にシフトし、さらにプロジェクトマネージャー的な仕事を依頼されるようになるなど、自分自身の複数のスキルをタイミングに応じて重心を変えながら仕事をするスタイルになっていきました。

その後、新しくつくる地域系の学部の教員に応募しないか?と島根県立大学の先生に声をかけてもらい、現在に至ります。研究者として、協力隊員として、フリーランスとして動いてきた全てが今の仕事に結びつき、今は学生たちとともに地域づくりに取り組んでいるところです。

島根で活躍する移住者たち

私がフリーランスとして最も力をいれたのが、島根県広聴広報課から依頼された「Craftsman's Base Shimane」という広報プロジェクト。島根で活躍するクラフツマン(自らの手で暮らしをつくる人、と定義しました)たちを取材し、映像と記事で発信するというもの。例えば、こんな人たちを取材しました。

①ファーマーズマーケットを企画するアメリカ帰りの農家の青野さん

②松江市協力隊OBで古民家を拠点に設計事務所を運営する高橋さん

③石見神楽に惚れ込み移住したヒップホップダンサー窪田さん

島根で活動するフリーランスをチームにする! 協力隊OBOGも参画

3年間で、15本の記事と動画を発信したこのプロジェクトは、取材した人たちも非常に魅力的だったのですが、私が大好きだったのが製作陣。通常は、テレビ局や広告代理店が担うようなプロジェクトを、なんと島根で活動するフリーランスたちをチーム化して運営したのです。ビデオグラファー、ライター、編集者がチームを組んで企画制作を進めたこの体制は画期的でした。以下はそのチームの紹介記事です。

編集者の瀬下翔太さんは島根県津和野町の地域おこし協力隊OBで、現在は東京に戻っていますが、島根や津和野も含め今も様々な地域と組んでローカルプロジェクトを企画・展開しています。桐山尚子さんは島根県松江市の地域おこし協力隊OGでパラレルワーカーとして、松江市でのプロモーション活動や教育系のコーディネーター、ファシリテーターや研修講師など島根の様々な現場で活動しています。

どうしても田舎だとマーケットが小さく、フリーランスでやっていけないイメージがあると思いますが、自分のスキルを磨いて他県からも仕事を依頼されたり、できる幅を増やして多様な仕事をとっていくなど、しぶとく、そしてその人らしく生きている魅力的なフリーランスの方々は、きっと協力隊のいいロールモデルとなってくれます。


地域おこし協力隊員のサポート

最初に東京から某県へ移住した時の辛い経験から、ミスマッチなどの辛い状況に置かれている隊員の役に立ちたいと、しまね協力隊ネットワークの活動に当初から関わってきました。行政、地域、協力隊、三方よしが理想ですがコミュニケーションのすれ違いによってトラブルは産まれます。ミスマッチをなくすためにも、地域おこし協力隊の受け入れや運用ノウハウを貯めるサポート組織が求められており、その役割を果たせるよう、協力隊OBOGの仲間たちや、ふるさと島根定住財団や島根県の方々とともに日々活動しています。

2020年から本格化したコロナ禍では、都会から島根に着任しても、なかなか地域に出られない隊員が多くいました。隊員の孤立化に対応するため、毎週オンラインで隊員が集まる機会をつくって対応。その後も様々な研修をオンライン化し、スキルアップやつながりづくりの機会を確保していきました。今も支援制度を様々に試しながら隊員のサポートをしていきます。

コロナ禍でのオンライン交流会

コロナ禍で毎週行っていた協力隊OBOGのトークの一部。YouTubeでの公開部分のほかzoomで感想を共有したり、悩みを相談する時間も設けました。

YouTubeで研修動画をアーカイブ

YouTubeで各種研修や地域おこし協力隊OBOGのインタビューもアーカイブしています。各年度の活動発表会も「ライブ」から視聴できるのでぜひご覧ください。

現在の島根県の地域おこし協力隊サポート体制

現在の島根県の地域おこし協力隊サポート体制についてはこちらの記事をご覧ください。島根県の地域おこし協力隊OBOGたちが各種研修や交流事業を行っています。


地域おこし協力隊を検討中のあなたへ

地域おこし協力隊の活動は、正直入ってみないとわからないことが多くあります。だからこそミスマッチも生まれますし、逆に予期しなかった素敵な出会いも多くあります。情報収集をし、事前に備えることもできますが、とはいえどうにもならないこともあります。でもそれは、働いていればどこにだって起こること。

地方に可能性を感じた自身の感覚を信じて時に飛び込んでみる思い切りのよさも必要です。大なり小なり失敗することもあります。しかし、一度の失敗で挫けずに、自分が挑戦してみたいこと、地域のために働こうと思った初期衝動を忘れずにもう一度粘ってみてください。

そんなひたむきに頑張る地域おこし協力隊をサポートする存在でありたいと思っています。島根で一緒に活動してみませんか?